ちょっと興味深い歴史記事を。。。
家康自身は三河の出身であるし、戦国時代は西の京都と大阪が中心だったので、天下を取るならそこに幕府を置くのでも良かったようなものなのに、なぜ家康は江戸に幕府を開いたのか?・・・
それについて、あの天海僧正が関係している、ということです。
天海僧正
江戸時代は縄文の再生~1.家康が江戸を目指した本当の理由より
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2013/07/001512.html?g=123204
☆一般的に言われている、江戸に幕府を開いた理由
・ 京都の朝廷の影響から出来る限り逃れるため。
・幕府が開かれた当時、徳川家に反逆する可能性があった大大名は島津家・毛利家・前田家・伊達家くらいで、それらの大名の侵略を考えた場合、大阪・名古屋よりも江戸が防衛上適していた。
・戦国時代の技術革新で土木技術がすすみ、単なる湿地帯だった武蔵野が有力な穀倉地帯になる見通しがついた。
・領地が変わると、家臣も引越しで負担がかさみ、現地で徴収される兵士の忠誠度も低い&これまで忠誠を尽くしてくれた支配民と別れなければならない。
ほぼ敵なしだったとは言え、既に基盤のできている江戸から他の地域に拠点を移すことは徳川家にとってやはり大きなリスクだった。
・水運(経済・流通)の要所としての重要性。
しかしこのような表向きの理由だけではなく
家康は東日本を組み込むことが天下泰平に繋がることを、直感していたのではないか?
家康がそう直感したのは、なぜか?
それは、円仁→天海→家康と引き継がれた、縄文の心がそうさせた!?
家康のブレーンであった天海は、東北の会津出身であった。
江戸時代初期に活躍した天海僧正(慈眼大師)は、徳川家康をして、初対面の時、「天海僧正は、人中の仏なり、恨むらくは相識ることの遅かりつるを・・・」と言わしめたほどの傑僧であった。
天海僧正は天台宗の僧として将軍家康・秀忠・家光の3代にわたり、ブレーンとして絶対の信頼を受けたばかりではなく、織田信長に焼かれた後の比叡山の復興、川越・喜多院の再興、東照宮の造営、上野・寛永寺の建立などにも深く関わった人物だ。
家康の神号「権現」の名付け親ともいわれる。
天海には明智光秀説を初めとした諸説があるのですが、1536年に東北会津で生まれ(大名の一族だったそうです)、8歳の時父親が暗殺され、11歳で出家、円仁が開いた天台宗(密教)の寺々で(のちには比叡山でも)僧侶として学びます。
このころの僧侶は哲学者、総合医のようなもので、天海は薬草にも詳しく(ここは家康と意気投合したところだそうです)、風水などの知識を江戸の街づくりに反映させてもいます。
108歳まで生きたと言われる天海が、家康に長寿の秘訣を問われて答えた言葉に、
『気は長く勤めは堅く 色うすく 食細くしてこころ広かれ』
というものがあります。
「あせらず気を長く持って、仕事はしっかりこなして、色欲をおさえて、食事は腹八分に、心はゆったり保て」ということです。この教えを守ってか、家康も七十五歳の長寿を保っています。
またエピソードとして、
あるとき、三代将軍・家光の御前で柿をいただいた天海は、食べたあと、その種をフトコロに入れた。家光が「何にするのか」と問うと、「持ち帰って植す」と答えた。家光があきれた様子で「高齢の者には無益のことじゃ」と言うと、「天下国家を治める御方そのような性急なお考えではこまります。いずれこの柿の生長するのをご覧に入れましよう」と答えた。そして数年後、天海がたくさんの柿を献上したところ、家光は「どこの産物か」と聞いた。「これは御前から賜った柿の種が大きくなって実ったものです」と答えると、家光や同席していた者は感嘆しきりだったという。
というものもあります。
これらは一般的には養生訓として知られているものですが、現在見直されている「もったいない」意識に通じる、質素で、真面目、堅実な生き方(贅沢を戒める)を表す教えのように思われます。
天海が学んだ天台宗(密教)とはどのようなものだったのでしょうか?
時代は、東北に天台宗を広めた円仁(奈良時代)にまで遡ります。
東北の天台宗は、縄文文化と融合した祖霊信仰に近いものでした。
天海の残した教えは、縄文文化(祖霊信仰)と融合した円仁の教えを受け継いでいると思われます。
家康と天海との出会いは、1590年に家康が江戸入りする前年のことと言われていますが、天海が江戸を勧めたことは、その後の江戸の街づくりへの天海の係り度合いから、容易に想像できます。
出会ったときに家康に「もっと早くに会いたかった」と言わしめるほど、両者の思想性は近かったのだと思われます。
家康は晩年に天海に出遭い、その縄文的思想に触れます。
家康は戦乱の世で自身の半生を生きてきたこともあり、戦乱の世のない治世を強く求めていました。16歳の初陣の頃から58年間にわたる戦いの時代が終わったときに、家康は元号を「元和」と改めました。
時代が平和になったことを指して「元和偃武(げんなえんぶ)」と言いますが、これは儒教の「偃武修文」(戦いを止め、学問・教育によって平和菜世をつくること)から採ったそうです。
このように戦乱の世を経て蓄積された家康の平和・安泰への希求が、天海の持つ争いとは無縁の縄文的思想に触れることで施策として結実したのが江戸時代だったのでしょう。
だからこそ、江戸時代を通じて様々な施策が平和、再生、集団、自然志向といった縄文的価値観に貫かれて生み出されていったのです。
しかし、国家規模で社会変革を引き起こした江戸のシステム、これは家康や天海の個人の才覚だけでは成り立ちません。
それを受け入れ下支えした東国人、さらに日本各地の地方では、庶民にまだ縄文由来の共同体資質が色濃く残存していた事もまた押さえておきたいと思います。
こうして、江戸は天海―家康が導く縄文的社会の再生として日本史の中に登場したのです。
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この記事のコメント欄にあったものをお借りすると・・・
天海が学んだ天台密教の思想は、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉で表現されるもので、すべての人間は仏になれる性質をもっており、誰でも救われ、誰でも仏になれるという思想(中国での密教の教え)をより拡大して人間の成仏は当然で、草木さえも成仏できるという思想です。
これは生きているものの中心として植物を考える、という思想であり、草木ばかりでなく、国土までもが成仏できると言うのです。
国土も「生きとし生けるもの」に含まれ、自然界のすべての物に仏(精霊)が宿るという思想です。
これはまさに、アニミズム、大自然を崇拝し共存共栄を図る縄文意識をあらわしていますね。
江戸時代は、今でいうエコな循環型社会であり、“もったいない”文化。
また、人々の心も「江戸しぐさ」にみられるように、お互いを尊重しあう思いやり文化であったこともあり、現代の人々が、「江戸時代に戻ろう」と叫ぶのは、文化の底に潜む、こんな「縄文意識」に気付いたからなのでしょうね。
その縄文意識を江戸文化の底に潜ませたのは、あの天海僧正だったというわけです。
そういえば、天海僧正は、東国における縄文神系の神社のネットワーク作りも行っているのではないでしょうか。
私達のDNAに刻まれた縄文意識の情報がまたちょっと目覚めた感じの内容でしたね。
詳しくは上記リンク先へどうぞ。
参考:
天海 WIKI
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7
江戸に掛けられし妖術
http://hachi-style.jugem.jp/?eid=5
江戸は、天下の奇僧「天海僧正」って人に呪術アドバイスを受けている。
此のお坊さん、徳川将軍三代に仕えた人、107歳!まで長生きした人。天台宗の人だと云うことですが、江戸城守護を、山王一実神道による神仏混合、風水や陰陽道、真言密教など、有りとあらゆる呪(まじな)いを行った呪術アドバイザー。スーパーオカルト僧。
江戸は風水などの、呪(まじな)いに寄って作られたと云うことです。
寺や神社、道から河川に至るまで。
更に天海僧正は家康の御霊のため日光東照宮を建立する。
東叡山寛永寺から北の位置になるんです。此れには北斗信仰が見えてくる。

