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☆ いまも日本の裏でうごめく?サンカ☆

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サンカと呼ばれる人達がいます。
蝦夷を中心とした「まつろわぬ(統治されざる)人々」「中央集権によって封印されようとして山奥に逃れた人々」のことです。

小沢一郎氏は、東北岩手の出身で、いわばサンカの頭領だという話もあります。

原日本人・縄文人を語るときに外せない「サンカ」こそ、縄文の精神を受け継いでいる者として、記事に残しておきたく感じました。

サンカは一時秘密結社化したということなので、あの「八咫烏」(やたがらす)ともダブってきます。
世間一般人のなかに無名のひととして紛れて、重要な働きのために暗躍している、あの八咫烏(やたがらす)です。

いまこそ、あの八咫烏・サンカが、裏で動いているのではないでしょうか?


ちなみにサンカ(山窩)とは、明治以降の官憲用語であり、差別的な意を含むと言われていて、身殻別八万物運(ミカラワケヤヨロヅノモノハコビ)が正しい呼び方とされています。


ツイッターより

服部順治 ‏@JunjiHattori 9時間
今も政治に活躍している日本のジプシー、サンカ族?中央集権的な渡来系の古代ユダヤ人(実はシュメール由来)とまつろわない、坂の者とも呼ばれ、それが語源となった1万年続いた縄文系日本先住民(カンジン)。秀吉、蜂須賀、加藤清正ら。戦後1万人も


服部順治 ‏@JunjiHattori 8時間
サンカに関して一番、気になるのが昭和3年東京の隅田川一により設立されたサンカ秘密結社シノガラ。岸一族、天皇家に次ぐ資産をスイス銀行に隠し、昭和36年時点で3分の1は官僚、学者、財界人ら。金融マフィアとして暗躍してるのか?それとも・・

服部順治 ‏@JunjiHattori 8時間
芸能ネタだけど、五木ひろしが有名になったのは、3度目の芸名を変えた時:作詞家の山口洋子があのサンカの賛歌小説「風の王国」を書いた五木寛之からその名前をもらった。1950年代に消えたというサンカの人達が未だこの日本の根幹に生きる証しか?



長い記事を引用します。
こんな長いのを読む人がいるのかどうかはわかりませんが^^、なかなか興味深いですよ。


いまだに日本の闇でうごめくサンカの人達より


【サンカ族の定義】

サンカとは、古代史上の最大政変即ち出雲-三輪王朝から大和王朝への国譲り政変の過程で地下に潜った出雲-三輪王朝派の一派で、大和王朝以降の時の権力の支配にまつろわぬ特殊な系統ではないかと考えられる。
サンカ伝承で出雲の国津神を祖としているとあるのが、これを裏付ける。
と云うことは各地の鬼伝説、天狗伝説と重なることになるのではなかろうか。

「農耕せず、定住せず、政治権力に服従しない民」と評されているが、この経緯に淵源があるのではなかろうか。
いわば原日本人(あるいは縄文人)出雲-三輪王朝系譜の流民と云うことになる。

この流民は国譲り政変以来、人里離れた山間地に住み、独自の生活圏をつくって居たのではなかろうか。
その生態は、江戸時代の身分制に於けるエタ(特殊部落民)、非人とも似て非なる系統で、そもそも身分制に出てこない「無籍型隠れ民」であるところに特徴が認められる。

サンカの生息域は広く北は青森の下北半島から、南は鹿児島の大隅半島に至る日本列島の脊梁山脈や高地をテリトリーとする主として「山の民」と考えられる。
古代史上の国譲り政変から考えると、明治維新後の解体までの期間の1500年余を生き延びてきたことになる。

サンカは徹底的に公民化を拒否し、表に出ない形でネットワークを形成していた。
常に体制(国家)に所属せず、人別帳や戸籍に登録されない、届け出しないいわゆる不祥の民と云うことになる。
いわば、国家の中にあって国家権力の枠の外にある自立した漂白共同自活集団とでもいうべき存在であり、「日本人でありながら戸籍を持たない日本人」、「日本の漂泊ジプシー」と云われるアウトローの存在であった。

サンカが謎であるのは、サンカ自身が自らの存在を公にせず隠然と世を忍んできたことによる。一般の家系図や由来書にあたるものを持たなかった。
仮にあったとしても門外不出であり、あるいは口伝によったものと思われる。
これによりサンカ研究が意図的故意に為されにくい状況が生み出された。
これが第一の理由と考えられる。


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元々の列島の先住民・蝦夷(えみし/縄文人)は調和の民で、自然と調和し互いに調和して暮らしていた。そこへ破壊混乱の氏族が武力を持って征服に来た。
この時から、まったく違う価値観を持った氏族と良民(民人)・非人(賎人)、つまり破壊混乱の氏族と調和の民が同居する二重国家体制の日本列島が徐々に形ち作られて行く事に成る。

日本人は、原日本人系縄文人と比較的後期の渡来系との同化二重構造の中で、混血が今でもまだ続いている。
日本列島の原日本人系縄文人(原ポリネシア系)が「自然共生主義」である所から、その信仰基盤に自然神が多数存在し、後期の渡来系が同化に際ししてそれを採用(治世に利用)して八百万(やおよろず)の神が成立した。
その混血同化の証明が、ミトコンドリアDNA分析である。
アイヌの人々と沖縄の人々が、人類学的にも分析でも、「縄文人に近くて近縁関係にある」と証明されてはいるが、少なくとも一万二千年以上前には、「別の集団として存在していた」と見られる。
「原日本人系縄文人に近い」とされているアイヌ系と沖縄系に多いタイプの割合が原ポリネシア系であり、日本本土では約二十四%、韓国では約十九%、中国では約十二%である。

山窩(サンカ・サンガ)は、九州から東北地方まで分布している所から、比較的後期の渡来系勢力に押されて、同化を拒み、山中に逃げ延びた「内地の原日本人系縄文人(原ポリネシア系)の一部ではないか」と考えられる。

勿論、山窩(サンカ・サンガ)にも渡来系勢力との接触はあるから、完全に文明から取り残された訳ではない。
山に篭った群れ、平地に降りて来て一郭に集団で居留したもの、その中間の存在もあった筈である。
戦国期~安土桃山期に伸し上がった土木工事や築城術、土木戦術、輜重(しちょう/後方支援)運輸術など異能の勢力が、豊臣秀吉を始めとする蜂須賀正勝(小六)、加藤清正、藤堂高虎などの別の素性を出自とする土豪集団が一大勢力を築いた事も、彼らが平地に降りて来た山窩(サンカ・サンガ)集団からの出自を疑わせる。

そして彼ら山に篭った群れの純粋な山窩(サンカ・サンガ)の生活にも、文明や道具の一部は取り入れられたが、生活様式だけは頑なに守って独自の生活圏を山岳地帯につくり、言わば祭ろわぬ人々(統治されざる人々)として存在し、それが明治維新の少し後まで無人別集団として存在して居たのである。

本来、敗者や異民族に対して包容力がある縄文の流れを汲む集団は、渡来系を内包し、闇に潜むことで神代の魂を近代まで守り続けたのではないか。

日本特有の文化の担い手になることで、そして時折時代の節目に出てきては、日本の方向性を変えていた形跡を感じさせる。


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喜田貞吉氏の「サンカ者名義考」より


坂の者と云ひ、川原者といふは、共に其の住居の有様から得た名で、蓋し市街地又は田園等に利用すべき平地に住むを得ず、僅に京都附近の空閑の荒地を求めて住みついた落伍者の謂であつた。
而して掃除・警固・遊芸其の他の雑職に従事し、或は日雇取を業として居つたものであつた。 是等の徒は地方によつて、或は山の者・谷の者・野の者・島の者・堤下(どてした)などとも呼ばれて居るが、いづれも皆同一理由から得た名と解せられる。

其の坂の者といふ名も、必ずしも京の五条坂の部族のみに限つた訳ではない。
蔭涼軒日録文正元年二月八日条には、有馬温泉場の坂の者の名も見え、 大乗院寺社雑事記には応仁・文明頃の奈良符坂寄人(ふさかよりうど)の事を坂衆・坂座衆、或は坂者などとも書いてある。
斯く地方によつて種々の名称があるにしても、結局は同情すべき社会の落伍者等が、都邑附近の空閑の地に住みついて、種々の賎職に其の生活を求めたものであつて、特に京都では坂の者・河原者の名で知られ、それが通じてはヱタとも、非人とも呼ばれて居たものであつたのである。

而して其の称呼は時に彼此相通用し、其の実河原者をも屡坂の者と呼び、坂の者をも或は河原者と呼ぶ事にもなつたらしい。
然るに後世では次第に其の分業の色彩が濃厚となつて、河原者の名が其の実河原住居ならぬ俳優のみの称呼となつたが様に、 坂の者の名がサンカモノと訛つて、特に漂泊的賎者の名として用ひられることになつたのであらう。

賎者の名称が同じ程度の他のものに移り行く事は、もと主鷹司の雑戸なる餌取(えとり)の名が、ヱタと訛つて浄人(きよめ)・河原者等にも及び、はては死牛馬取扱業者にのみ限られる様になつた例もある。
真の京都の坂の者の後裔は《つるめそ》の名を以てのみ呼ばれて、本来の坂の者の称を失ひ、却つて其転訛たるサンカモノの名が、別の意味に於て用ひられる様になつたのも、必ずしも敢て不思議とする程ではない。
かくて近時に至つては、オゲ・ポンスケなど呼ばれた他の地方の漂泊民にまで、其の名が広く普及しつゝあるのである。


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【サンカ族の生業】
 
サンカの民の生業としてよく挙げられるのは川漁漁、箕(み。ざるのような形をしていて穀物を脱穀し、可食部分と殻を分ける道具)、蓑(みの、雨合羽)、笊(ザル)、竹細工、竿、笛、手袋、ささら、茶筅(ちゃせん)づくり等々である。
複数の素材で造られた高度な知識と技術を要求された製品であるところに特徴がある。
他にも木地師(きぢし、ロクロ師)と云われる木工製造、蹈鞴師(タタラ)と云われる鍛冶屋、狩人(マタギ)、樵(キコリ、木挽き)、漆屋、炭焼き、鋳掛屋(ふいご)、研屋(けんど)、山守(やもり)、田畑守(のもり)、川守(かもり)、獅子、たまい、猿舞い、猿女などの遊芸者、呪術的宗教者、巫女、渡り商人等々多岐にわたる。
明治新政府の刑事政策では「川魚漁をし、竹細工もする、漂泊民」と規定されている。

要するに、農耕社会の裏側で補足潤滑する職業で生計を立てていたと推定される。
注目すべきは山と里との互いの「テリトリー」(生活圏と職業)を侵すことなく平和的に共存してきたことである。ここに、まことに日本的な和合ぶりが見て取れる。

【サンカ族の衣食住】

 食は米を主食とせず、古来からの食事法である山野海の産物を組み合わせ、蕎麦やうどんを主食とするとともに川魚、小鳥、山菜とくに自然薯(じねんじょ)などを食べた。
独特の優れた調理炊事法による食生活を確立していた。
例えば「焼石料理」がその例で歴然としたサンカ料理である。

住居は「せぶり」と呼ばれる移動式天幕(テント)を山裾や河原などの水の便のよい所に南向きに張り、テントの中央には炉を切り、テンジン(天人) とよぶ自在鉤を下げ、テンジンとウメガイとよぶ短刀の使用はサンカの証とされた。
テント住まいのほか洞穴を利用したり簡単な小屋掛けをするものもあった。地面を掘った穴の中に天幕を敷き、そこにためた水の中に焼けた石を投げ込んで湯をつくり入浴する方法や、地面を焼いてその余熱で暖をとるなどの古い習俗も伝えている。

【サンカ族の家族紐帯、婚姻制度】

出産前後の儀礼がほとんどなく血忌みに対する観念の希薄さも特色といえる。
家族6~7人、5家族くらいの単位で講をつくっていた。 


【サンカ族の言語】

サンカは独特の隠語を喋り、いわゆる神代文字であるサンカ文字を使用する。
サンカ文字の一例が次のように図示されている。

$アメジスト紫峰の輝き


 
この「サンカ文字」は、「古史古伝」の竹内文書に登場する象形文字や、上記(ウエツフミ)に登場する「豊国(トヨクニ)文字」と酷似しており、同起源・同系統の文字であることが判明する。
但し、日常的には土地ところの村里の言語を使っていたと考えられる。
必要に応じて仲間内だけで通用する「隠語」を持ち、全国に独自のネットワーク(情報伝達網)を構築し緊密なコミュニケーションを図っていたと思われる。


【サンカ族の宗教と処世観】

サンカは出雲-三輪王朝の謂わば縄文系の民である為、その時代に確立していた思想、宗教を継承していると考えられる。
このことが、同じく出雲-三輪王朝系譜である山伏修験道信仰と繫がることになる。
いわゆる古神道を保持していると思われる。
これによれば、1・地球環境、自然との共生、2・共生的住み分け社会、3・質素で簡素、素朴な生活、4・本当の豊かさを知り、自由で誇り高く、弱者に対して慈しみの精神を持った生き方を目指していたといえる。


【サンカ族の秘密組織性】

サンカは徹底的な秘密集団組織として生きてきた。
外部の者にはけっして自分たちのことを話さず、特殊な隠語を用いて話し、他の仲間への連絡には特別の符合で書かれたアブリ出しを地面に埋めるなどして行う。
その結束は固く、独自の行政・裁判法をもち、一般の倭人とは異なる習慣、信仰、伝承を維持し、しっかりとした相互扶助システムをもって全体の生活を安定させている。
緩やかながら強固な組織連帯性を保持していた。
全国のサンカを支配する組織の存在も伝えられていて、最高権力者であるアヤタチを頂点としてミスカシ、ツキサキ(シ)などの中央支配者がおり、各地域にはクズシリ、クズコなどの支配者が置かれ、そのもとに各地域セブリをムレコが統率したという。
彼らは仲間相互の信義と義理とを道徳の第一とするとともに、外部に対しては厳しい秘密主義をとっていた。
日本的な秘密結社の原型とも云える。座右の銘は、「統治されずせず。赤心同胞に捧ぐ」。


【明治新政府の取り締まり】

明治新政府の御代になって、国勢調査により戸籍が作られることになった。
壬申戸籍(じんしんこせき)以来急速に整備され、これに合わせてサンカが犯罪者予備軍として位置づけられ、監視および指導の対象となり徹底的に取り締まられることになった。
その理由として、「徴税や徴兵などのため、国家の近代化に伴う戸籍整備の必然性があった」と解説されているが怪しい。
実際は、山伏修験道の取り締まりと軌を一にしており、国際金融資本帝国主義ネオシオニズムの日本政治容喙と共に隠然とした勢力を持つ純日本的秘密組織性を帯びていたサンカが取り締まられることになったと解すべきだろう。

明治新政府の住民戸籍化政策によって、サンカは徐々に元の生活圏に近い集落や都市部などに吸収されたと考えられている。
サンカは、徴兵、納税、義務教育の三大義務を拒否し、「まつろわぬ民」、「化外(けがい)の民」として生き延びていたが戸籍が整備され、全国民が登録される体制が整ったため、江戸時代に人別から洩れた層も明治以降の戸籍には編入されるようになったと考えるられる。
これによりサンカが一般市民と混在することになった。
これは同時に表向きのサンカの消滅をも意味する。

サンカは明治期に全国で約20万人いたと云われている。
昭和の戦後直後で約1万人ほど居たと推定されている。
戦後は住民登録をも拒否していたが、次第に「溶け込み」化されて行き1950年代末に消えた。

【サンカの延命と消滅(溶け込み)】

昭和3年、東京のクズシリ(頭)隅田川一を長として東京一円を中心にシノガラ(忍びのヤカラ)と名付けられるサンカ秘密結社が結成されたという。
シノガラは外面的には社会での職業生活を送りながらも、サンカ一族の堅固な結束を維持する重要な役割を負って生み出されたものであった。

昭和24年、このシノガラが中心となり、表の顔として財団法人全国蓑製作者組合が組織された。
サンカ一族が出しあってつくられたアングラ・マネーとしての相互扶助のための基金の一部が組合基金として浮上することになった。
この共同基金の金額は、昭和36年の時点で実に2億49万1011円となっている(当時の大学初任給は2万円)。
実際の額の10分の1という見方もある。
この基金はシノガラの手によって年1割2分の利回りで運用されているという。
現在では基金の年々の増加と運用上の増加を考えれば、莫大な金額になっていることが予想される。
また昭和57年の時点で各自が最低1000円以上を収入に応じてシノガラに収めており、総額は5兆円を越すものとされている。
サンカ一族はこの資金をフルに活用し、シノガラが日本の根幹として根を張りめぐらし日本の中枢を握ることを目的としている。

昭和36年の時点でシノガラ会員の3分の1は官公史、次いで学会人、財界人であった。
優秀な頭脳が見て取れる。



【サンカと共産主義者との協調と確執】
 
○的ヶ浜事件
 http://www.geocities.jp/furusatohp/panerurten/photo/matogahama1.jpg

「今やサンカは日本の政治経済から裏社会までを動かすことが出来る巨大なシンジケート だぞ、穢多の解同なんてサンカシンジケートから見れば鼻糞みたいなもんだ。
だけど彼らはハタムラに従って決して口外しないから、その存在は謎のままだ。
サンカを ルンペンと思ってる馬鹿は一生それに気づく事がない。
彼らはいたるところに溶け込み、 日本を裏から操作しているのだ。
部落解放同盟は自分達の利権しか眼中にないが、サンカは国の利益すべての国民の利益を考えている。
あなたの近所にもトケコミ(溶け込んだサンカ)が、かならずいるよ」


【「義経サンカ説」考】


義経にサンカの血が流れ、又、義経を支えた人たちが極めてサンカに近い人たちであったことは、サンカマニア(贔屓)でなくても、「義経記」を少しでも知っている方には充分理解して頂ける話しだと思います。

義経の生母は常盤御前で、傀儡(サンカ系)でもとは遊女であったといわれ、頼朝の父である義朝の妾となり義経を生んでいます。
そして間もなく平治の乱により源義朝が平清盛に破れて逃れた時に、常盤御前とその幼子たちは置き去りにされています。
それは常盤御前が卑しい身分であったからではとの話しもあります。
置き去りにされた常盤御前は幼子三人を連れて逃げおおせますが、結局は清盛に捕らえられ、子供たちを出家させるという条件で清盛の妾となり殺害を免れることになりました。
(常盤御前は大変な美女であったといわれています)
その後、牛若丸(義経)は四歳まで母のもとに育ち、七歳頃から鞍馬寺で修行し、鞍馬寺の後継者となるところでありましたが、武芸の師ともいえる鞍馬天狗(これぞサンカであり修験道者)があらわれて、サンカ(忍者)の軽身の術等を教えられることになります。

それからは御存じの通 り、弁慶や金売吉次等のサンカ(山の民)と思しき者等を味方につけて活躍をすることになります。
又、恋人の静御前は白拍子であり、静御前の母はサンカの本拠地である丹波の生まれであり、歌と舞いにすぐれた人であったとされていることから、静御前もサンカではなかったかと思われます。

その他にも歴史上の人物でサンカ系の人は大勢いたと思われますが、例えば同じように母親がサンカといわれる徳川吉宗や父の代まで瀬降りをしていたと伝承される豊臣秀吉や祖父位 がサンカだと思しき徳川家康、そのものずばりサンカの親分のような楠正成などが思いつきますが、そんなことは決して表の歴史には出てこないのが、この国のタブーといいますか、不思議なところであります。

近代になってからも、この国を代表する人たちの中にサンカ系の人が大勢いるのだと思いますが、(なんとなく知っていたりしますが)決してそんなことは表に出ないし出せないところにサンカというもが、この国の最後の隠し玉 のような気をさせたりします。


【 『野史呼び名辞典』HPより】

サンカと呼ばれた人たちが最後まで縄文の魂を守り、独自の生き方を貫いてきた人たち。
その縄文の精神とは、自然と共に生きることであり、自然の声を聞き、自分の魂の声を聞き、自分が何をしたいのか、何をすれば細胞の一つ一つが喜ぶのかを知り、それを自分で決めて、自分の責任で行動できる精神。

それに対して服従してしまった者の精神とは、自然からの声を遮断し、うちなる魂の声を無視し(それに従うのが怖いから)、上の者が決めてくれたことや大勢の人がやっていることしか安心して行動できないというもの。

今地球に求められているのは、人や自然を差別 し、自分の行動に責任を持てない無責任な人たちではなく、自然の声を聞き、自分の責任を自覚し、環境のことや弱者のことを考えて行動できる人たち。
そのような人たちの群れない繋がりが地球を救うことになる。
 
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山に籠る技術者集団・・・仙人や天狗や忍者とも関係がありそうです。
被差別民ということでは、部落民とも繋がり、河原者といえば歌舞伎役者や芸能人との関係も?・・・

サンカの精神を受け継ぐ人々が、日本のさまざまな中枢にも存在しているそうですが、その方達が、今の日本の構造をグレンとひっくり返すために働いていてくれている可能性があります。

縄文のように、祭政一致に戻るのが、世界の雛型・霊的日本としては必要な気がしますが。。。








♡バレンタインデー♡












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