肉食については、動物の肉を売ることを生きていくための生業としてしている方達のことを考えると、とてもつらい感情が湧いてきて、ひとえに拒否することばかりが能ではないと感じてしまいます。
肉食について書かれた、こんな記事に出会って、確かに、動物を育て食肉として売る側・それをいただく側の気持ちにネガティブなものが無いならば、それも循環・メグリの大自然の側面として、むげに排斥することではないという気がしましたので、シェアします。
遠い記憶・前世からの約束 さまの記事より転載
◆食物に関して(肉食)◆
http://farmemory.exblog.jp/18922869/
私は幼い頃、母と離れ祖母の手で育てられました。当然の事ですが食事もその祖母の作ったものを食べていました。
ところが彼女はウルトラと言っていい程料理が苦手で、それはもう奇想天外な食事を出され辟易した幼少時期を過ごして来ました。
その反動なのか、元々持つ食への興味なのか、或はその両方なのかは分かりませんが幼い頃(小学校低学年頃)に料理に目覚め、小学校高学年の頃には自分の出刃で鯖を一匹下ろし、タケノコを米のとぎ汁で下煮したりしていました。
今、我が家では家で仕事の出来る私が今でも食事を作っています(と言うより料理が趣味でもありますので、キッチンに立つのが好きなのです)
自慢する訳ではありませんが、目打ちを使い鰻や穴子をさばけますので、今でも魚は切り身では買いません。魚屋で鱗もそのままで買って来ます。時には各地の漁港から丸のまま送ってもう事もあります。
魚や野菜も幼い頃から自分で選んで自分で調理して来ましたので、どうしてもスーパーで食材を購入したいと思いません。
しかし出来るだけ野菜は八百屋、魚は魚屋、肉は肉屋で買いたいと思っていますが、私の住む地域には個人商店が殆どないので、時には築地の場外や住宅街の商店まで買いに行きますので手間がかかります。
また、丸のまま食材を手にすると、その食材のエネルギーの様なものを感じる事が出来ます。
この様に魚と野菜に関しては選別する事が割合容易です。
所が食肉に関してはどうしても処理したものを手に入れるしかありません。
かなり以前東北に住む知人からウサギを一匹貰った事があり、この時には野山を駈けるそのウサギの生前の姿さえ感じ取れ、命を頂く事がどういう事かを身を持って知る事が出来ました。
さて、この肉食ですが確かに次の次元への移行が完了すれば、食肉を口にする事は減って来るでしょう。
しかし、私達は今未だ変化の過渡期にいます。
高次元に行くものは肉食をしてはならないと「知識」だけで自らに禁止令を出し、口にしない事が必要ではありません。
移行は個々人による段階があります。
人によってはまだ物理的な肉体的エネルギーを必要とする人も居ますので、無理な菜食に走る必要はないかと思います。
私も、以前程の頻度や量を取らなく無くなってはいますが、未だ食肉を口にします。
ただ、年齢的な事もあるでしょうが、過度な肉食は体に不調を感じる様になっては来ました。
こうして徐々に離れて行く事になるでしょう。
しかし、この移行段階も皆等しく同じ通過をしません。
早い段階からに肉食を体が受け付けなくなる人も居れば、既に自身の変化が限界点を突破し、急速に完成に近づいていたとしても、その人に取って動物性タンパク質が移行のエネルギーとして必要であれば食肉に対し食欲を持つ事もあります。
しかし、それもいずれ変化して行き、いずれは口にしなくなる時も来るでしょう。
古来私たち日本人は鯨の肉で多くのタンパク質を取っていました。
鯨は私たち人類以上に精神性が高く(特にシロナガス鯨を筆頭としたひげ鯨類)彼等は私たち日本人が餓えに苦しんでいた戦後の一時期、自らの体を私たちの為に提供してくれていた事をリーディングの時知り、涙した事があります。
彼等は肉体の「死」が、何を意味するかを熟知していました。
更には、家族や友人、パートナー(鯨達にも家族愛や友情はあります)への強い想いが、エゴの意識を生む事も知っていますので、私たち人類程の強い連帯意識は希薄です。
自身の肉体が他者の命を繋ぐのであれば、死を受け入れる準備を生まれる前からしていたと彼等から聞きました(どの鯨からと断定するのではなく、鯨族の総意として感じた事です)
※この記事を書いている今、外から大きなアポカリプティックサウンドが鳴り響きました。同時にクジラ族の「そうです」と言う意識を感じました。
日本やノルウェーではまだ捕鯨を続けています。
多くの国々ではこれに強い反発を見せる国もありますが、何れの言い分であろうとそれに他者が干渉する事は無用の事と感じます。
また、文化的、政治的、経済的(利権もあるでしょう)理由から続けると主張する側も、実力行使と言う暴力に訴え阻止しようと言う側も、そのどちらにも新しい次元の意識は感じられません。
また畜産に関して、今現在直ぐに畜産を排除しなければと、早急に答えを出さ無ければならない理由は無いと思います。
日本で飼育される家畜の多くは、生産者の方の愛情で育てられています。
命は巡ります「いずれ食肉となるのに?」とは思わないで下さい。
畜産に関わる方々が愛情を持って育てた畜肉を皆に食べて健康になってもらいたいとの一念から育てられた食肉と、その家畜達の「自らの命を提供する高い意識」を無視し、ただただ営利と効率だけを求め、狭い畜舎にびっしりと詰め込み押し込め、抗生物質と栄養剤の大量投与で病的なまでに「制作」された畜肉では、その肉の持つ「エネルギーのベクトル」に著しい差異が生まれます。
しかし経営者の方も、社員や家族の事を思っている事もまた確かな事ではありましょう、そこに悪意はありません。
問題を感じるのは、ビジネスの名の下に「営利と効率」と言う大前提を仕掛ける事により、遠大に仕組まれた、ある意識を持つ者達の計画があったのではないかと言う事です。
もしかすると、この「食材」に延ばして来た「闇の手」は経済やビジネス、TPPや食料安全保障の名の下に、人類に対し「ある種のエネルギー」を摂取させる為の、実に巧妙なトラップを仕掛けようとしたのではないかと思います。
その意図は人々の「覚醒」を阻害する事だったと思います。
第一次産業に携わる生産者の方々の「皆に喜んでもらいたい」という高い意識(それこそが健全なエネルギー)を排除し、営利の名の下に、その好ましいエネルギーを排除し「重く暗いエネルギー」を造り出し意図的に摂取させようとしようとして来たのかもしれません。
この負のエネルギーは、私たちの生体が摂取する毒素が肉体やDNAに影響するのとは違い、根源である魂にまで影響させる力を持っている事を感じます。
しかし、これらの計画もあと一歩の所で頓挫したのではないかと思います。
なぜなら多くの人がその事実に気が付き、目を向け始めた事と、作為を持つもの達がいくら「毒素を持つエネルギー」を作り出しても、日ごと強さを増している「光のエネルギー」が、それを中和、解毒しているからです。
子供のため安全を願い、吟味する事は当然としても、口にするものに必要以上にナーバスになり過ぎ「不安のエネルギー」を自らに生まれさせない事も重要です。
あなたが作り抱く不安のエネルギーは、お子さんに食べさせる食事に入り込んでしまうかもしれませんので、どうぞ「程々」に。
更なる高次元に移行が完了すれば、食事自体も今とは全く違うものとなって行くでしょう。
もしかすると、食事自体「生きる」事の範疇から離れて行くかもしれません。
(不食の時代)
それまではこの体を維持しなければなりません、にこやかに家族で囲む食卓が今は必要な時です。
<転載終り>
実は昨日、こんなことを「なう」ったのですが
アノニマスが日本政府に警告 捕鯨批判
『捕鯨問題における日本の立場』
これなどを読むと、日本における捕鯨文化の高さ・鯨を頂く日本人の心持ちにネガティブなものが無い限り、むげに排斥するのもどうなのかなと思えるのでした。
やはり上の筆者の考え方は、とてもナチュラルでありバランスが取れているものであり、肉食するひと・肉を生産販売するひとのどちらをも包み込む愛のあるものだと感じました。
多様性を認めるのが覚醒した在り方ならば、肉食の是非・肉食の提供の是非・それを拒むのも受け入れるのも各自の成長の一側面であり、全体の調和のなかでの一側面・・・
魂に影響を与えるようなネガティブなエネルギーが介在しなく、むしろ愛のエネルギーが存在するならば、感謝して受け入れることも大事なことなのだろうと思った次第です。バレンタインデー
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☆肉食についての考えかた☆
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