イエスとマグダラのマリアの真実。
イエスとマグダラのマリア(2)より
新約聖書の4福音書において、マグダラのマリアは出身地や行跡などは詳しく触れられていません。ただカトリック教会では早くから『ルカによる福音書』に登場する、「娼婦」を意味する「罪の女」と同一人物視してきました。
そのためいつしか、金持ちの出自でありその美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに出会い悪霊に取り憑かれた病を癒され、以後改悛したというイメージが定着していくことになります。
それでもよほど悔い改めがずば抜けていたのか、マグダラのマリアはカトリック教会、正教会、聖公会いずれにおいても、列聖されたレッキとした「聖人」なのです。
そしてなぜか、民衆の間では人気の高い聖人の一人でもあります。
またマグダラのマリアが新約聖書においてひと際重要なのは、エルサレム郊外のゴルゴダの丘で磔にされたイエスを遠くから見守り、イエスが捕えられるとともにチリヂリに去っていった弟子たちの中にあって、その埋葬までを見届けたこと。
さらには、『マタイによる福音書』などによると、「復活したイエス」に最初に立ち会った一人とされることです。
そして彼女は復活したイエスからじかに、復活の事実を弟子たちに伝えるように言われたとされることです。
このため(娼婦に貶められる以前の)初期キリスト教父たちから「使徒たちの(中の)使徒」と称えられたということです。
さて今度は「外典」において、マグダラのマリアはどのように記述されているのかを見てみましょう。
『ダ・ヴィンチ・コード』でも引き合いに出されていた『フィリポによる福音書』の2ヶ所で、彼女について言及されています。
「三人の者がいつも主と共に歩んでいた。それは彼の母マリアと彼女の姉妹と彼の伴侶と呼ばれていたマグダレーネーであった。」
ここではマグダレーネー(マグダラのマリア)は、ズバリ「主(イエス)の伴侶」と記述されています。
もう1ヶ所は、弟子たちすべてよりイエスが彼女を愛しているのを見て、弟子たちがイエスに尋ねる以下の場面です。
「主は、マグダラのマリアをすべての弟子たちよりも愛していた。そして、主は彼女の口にしばしば接吻した。他の弟子達は、主がマリアを愛しているのを見た。彼らは主に言った。「あなたはなぜ、私たちすべてよりも彼女を愛されるのですか?」救い主は答えた。「なぜ、私は君たちを彼女のように愛せないのだろうか」。」 (以上岩波書店版・荒井献訳より)
4福音書の記述とはまったく異なるマグダラのマリア像であり、イエスキリスト像です。
もしこれらの記述が本当なら、2,000年近く不動の教義であり続けた「キリストの独身性」や「キリスト像」あるいは「男性のみの12使徒像」は根底から揺らぐことになります。(ついでに、聖母マリアに姉妹がいたとする記述も新事実です。)
イエスとマグダラのマリア(3)より
「イエスが妻帯していたか否か」を問題にする場合、先ず見ておかなければならないのは、2000年近くもの長い間人類社会に絶大な影響力を及ぼしてきたローマカトリック教会(ヴァチカン)の存在です。
なぜならイエスキリストの独身性は、(キリスト教をその支配下に置こうとするローマ皇帝・コンスタンティヌス一世の招集による)西暦325年の第一回ニカイア公会議以降の何度かの宗教会議で徐々に教義化されていったものだからです。
それまではイエスが独身だったということを示す文献などは存在しなかったのです。(その辺の経緯については、映画『ダ・ヴィンチ・コード』の中でも描かれています。)
時のキリスト教父たち(当時の宗教的権威たち)の、長きにわたる幾度かの宗教会議での激しい論争の結果、あるものは採用されまたあるものは捨てられまたあるものは捏造(ねつぞう)されて、新約聖書などという形で徐々に今日に到るキリスト教の根本教義が形成されていったのです。
その過程は、2000年前パレスチナの地に「生身の人間」として生きていたイエスが、「神の独り子・キリスト」として絶対的に神格化されていくプロセスでもありました。キリスト教義の中でも、父と子と聖霊の「三位一体の神概念」と「キリストの独身性」はその根幹をなすものです。
本考と直接関係はありませんが―。それらの宗教会議の過程で抹殺されたものに、「転生(てんしょう)の知識」があります。
この輪廻転生の真実を隠すことによって、「人間は一回限りの人生で死んで消滅する儚い存在」と信じ込ませ、「死の恐怖」を植えつけたのです。
そしてひたすら従順な子羊のように、キリスト教会による救済を待ち望むように民衆を誘導してきたのです。(イエス自身は、弟子たちに転生に関することを説いていた可能性があります。)。
また悪魔=ルシファー説も、キリスト教会の奥から本当にコントロールしている存在を隠すための陽動作戦であったようです。
ルシファー(元々の意味は「光輝くもの」)は確かに堕天使に違いないとしても、少なくとも悪魔ではなさそうです。
それにまた、聖母マリアによるイエスキリストの「処女懐胎」にも大きな疑問符がつきます。
これはキリスト物語でも最も美しい奇跡物語です。
しかしイエスがあくまで三次元のこの世に生身の肉体として生まれてきた男子である以上、通常の性行為を経ずして遺伝学上の基本であるY染色体をどうやって入手出来たのか?が大問題になるのです。
少しお考えいただければお分かりかと思いますが、人間を操作(コントロール)するには、「宗教」を用いるのが一番簡単です。
以上のようなことから、ローマカトリック教会は「何ものか」によって人類社会をコントロールするために被せられた「巨大な網(ネット)」だったと言えるのです。
そのコントロールの大きな手段としての「キリストの独身性」(上記情報によれば「キリストの去勢」)は、「人類史上最大の嘘」と言えるものなのです。
イエスとマグダラのマリア(4)より
ローマカトリック教会(それに続く正教会や聖公会などすべてのキリスト教会)は、なぜ「イエスが独身だった」ということを教義の根本にすえる必要があったのでしょう?
それは「聖体拝領」の儀式と深く関係することです。
キリスト教会にとってこの最重要儀式を執り行う司祭はすべて「独身男性に限る」と定めたことと関係があるのです。
つまり未来永劫、カトリック教会での最重要儀式を独身男性に執り行わせるためには、大本であるキリストが「独身であった」ということを教義化する必要があったということです。
それではなぜ、この最重要儀式を独身男性司祭に限定する必要があったのでしょうか?
「女性の力を弱める」ということでもありました。
弱めるどころか、カトリック教会において女性は徹底的に排除されてきたのです。(中世キリスト教会による「魔女狩り」によって、火あぶり、拷問などで数万人もの女性が殺されたのがその好例です。)
特に経血中(生理で出血中)の女性を儀式の中に入れることはご法度とされてきました。
もっともこれはキリスト教に限らず、世界中の主だった宗教儀式でも似たり寄ったりです。
「経血中の女性は不浄で穢れた存在だから」というのが、その理由でした。
しかしこれはとんでもない魔違い(間違い)のようです。
経血中の女性は逆に、ことのほか「神聖な存在」のようなのです。
女性たちをなぜ宗教儀式の場から締め出したかといえば、女性特に経血中の女性に儀式を主宰させることによって、その宗教儀式が偽物で「彼らのコントロール儀式」であることをたやすく見破ってしまうから、と「特殊情報」では伝えています。
以上のキリスト教的文脈の中で「マグダラのマリア」は、西暦500年代の宗教会議で最終的に「娼婦」に貶められることとなったのです。
もちろんそこには彼女がイエスキリストと性的関係にあり、実はキリストの子供まで産んでいたという事実を闇に葬る意図もあったわけです。
イエスとマグダラのマリア(5)より
マグダラのマリアはエルサレムにあったイシス神殿の巫女だったようです。
それのみか彼女は、エジプトやスペインなど当時各地に点在していたミステリースクール(秘教学校)のイニシエーションをクリアーした、高度の女性イニシエートだった可能性すらあります。
もしそれが事実なら彼女は「女性キリスト」とでも呼ぶべき存在で、イエスキリストの伴侶としてはまさにうってつけの女性だったわけです。
ところで「イシス」は、古代エジプトにおける主要な女神です。
イシスの夫はオシリス神です。
エジプト神話によりますと、オシリスは弟のセトにより体をバラバラに切断され世界各地に捨てられてしまいます。
それを妻のイシスは必死で探し出し、オシリスを元のようにつなぎ合わせます。
その結果、甦ったオシリスは冥界の王になったといわれています。
マグダラのマリアがイシス神殿の巫女だったというのは、極めて象徴的です。
イエスとマグダラのマリアの結婚は、イシス、オシリス神話と深くリンクしているようなのです。
同情報の他の個所では、「(キリストがイシス神殿の巫女・マグダラのマリアと結婚したことにより)イシスを通じてオシリスの男根をつけ直し、断ち切られていた男性性を回復したのである」とあります。
ローマカトリック教会がイエスとマグダラのマリアの真実の関係を隠したのは、再びオシリスの体を切断するような行為であり、それゆえ「ローマカトリック教会の全構造とは、手足を切断されたオシリス神の上に成り立ってい」ることになるのです。
これは、私たち人間の歴史そのものでもあったといえないでしょうか?
私たちが認識を新たにすべきは、イエスは2000年前精力旺盛な生身の男性として、生命力溢れるキリストの生涯を生きたということです。
ただしかつめらしく神の国を観念的に説いていた、「去勢されたキリスト」ではなかったのです。
「他の弟子たちは、主がマリアを愛しているのを見た」(『フィリポによる福音書』)。
時にイエスは、マグダラのマリアと聖なるオルガズムを分かち合う、エロティックな錬金術師でもあったのです。
水をぶどう酒に、ぶどう酒をキリストの血に。錬金術とは、「平凡なものを貴重なものに変換するプロセス」とも定義されます。
そのプロセスには、「性エネルギーの昇華」が不可欠なのです。
同情報では、二人の間に(生身の人間の)娘が生まれたとしています。
名前は「サ・ラー」。(確か映画『ダ・ヴィンチ・コード』では、「サラ」という名前になっていたでしょうか?)
「ラー」は、これまたエジプト最高の太陽神の名前です。
ここからマグダラのマリアはパレスチナのユダヤの民ではなく、エジプト出身の女性だったのではないだろうか?とも推測されます。
ともかくこうして「キリストの血」は、サ・ラーを通して受け継がれていき、今日では100代目にあたる子孫がこの地球上に現存しているそうです。
ならば私たちは、『ダ・ヴィンチ・コード』のようにキリストの子孫を探すべきなのでしょうか?
いいえ、そんな必要はありません。
なぜなら直系の子孫ではなくとも、キリストは現在の人類すべての体内のDNAに生きているからです。
まさか?とお思いなら、ご自分の先祖をずっと過去に遡っていってみてください。
10代前で千余人、20代前で百余万人、30代前で十億余人、40代前で一兆余人…。
これを引っくり返してみてください。
たった二組の始祖のカップルから100代も経過するとそれはまさに天文学的数字、直系ではなくてもどれだけの子孫の数になることか。
まさに65億人余の現人類に、幾重にもキリストの血が注ぎ込まれていることになるのです。
イエスキリストとマグダラのマリアの結婚の真の目的とは、2000年後の今日の人類すべてに「キリストの血」を行き渡らせることにあったのではないだろうか?と思われるのです。
特に「2000年後の今日」に限定したのは、「水瓶座新時代」の入り口にさしかかっている「今この時」こそ、私たちのすべてがやがて「キリスト」になるべき時代だからです。
これは以前『天皇家3代の御名・考』で述べました、「ヒロヒト→アキヒト→ナルヒト」の「ヒトの意義」と完全に一致します。
「一十(ヒト)」つまり「真(まこと)の人」とは、「キリスト」に他ならないからです。
そうなれば、キリスト教をはじめとする「組織宗教」は必要なくなり、皆悉く崩壊することでしょう。
有史以来私たちをこずき回してきた「彼ら」の呪縛から、今度こそ完全に抜け出せるのです。
私たちは元々自由な存在です。
いかなる「首輪宗教」も最初から必要ではなかったのです。
(大場光太郎・記)
バレンタインデー
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☆イエスとマグダラのマリアの真実☆
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