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Channel: アメジスト紫峰の輝き
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☆日本の原爆開発の真実☆

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今日は広島原爆被災記念日ですが、その5日前に、イスラエルがシリアに原爆攻撃をしキノコ雲が現れたというのは、アメリカはイスラエルを以ってして、またあの悪夢を再現させようとしているのでしょうか。。。

いつも巡り来るこの季節に知っておきたいこと。
人々を狂気に駆り立てる戦争というものの恐ろしさ。
そして日本の原爆開発の真実。。。


被爆国「日本」にもあった幻の「原爆開発計画」より


終戦の翌年、アメリカの新聞に驚くべき記事が掲載された。
「日本は原爆を開発していた。朝鮮半島北部で実験は成功」
なんと太平洋戦争末期、敗色が濃厚となっていく日本で起死回生を狙って極秘裏に原爆製造計画が進めてられていたのである!
陸軍の強い圧力のもとで必死にウラン濃縮に挑む若き科学者たち。
そして原爆用のウラン鉱石を掘っていたのは福島県に住む15歳の中学生たちだった。

「マッチ箱一箱分で米国のニューヨークを吹っ飛ばす爆弾が出来る」
少年たちはそう聞かされて素手にわらじ履きでウラン鉱石を掘らされた。

昭和16年4月、日米開戦を目前にした陸軍は、当時、東京駒込にあった理化学研究所仁科研究室に原子爆弾の開発を正式に依頼する。
仁科研究室には後にノーベル賞を受賞する朝永振一郎をはじめとする優秀な科学者が集まる。
この極秘プロジェクトは仁科の頭文字から“二号研究”と名付けられた。
仁科は核爆発によるエネルギーをアメリカの科学者と同様にほぼ正確に予測し、原爆製造に必要なウラン235の濃縮分離実験を始めることになる。

一方でウラン鉱石掘りに駆り出されたのは、福島県石川町の中学生たち160人。
石川町にある石川山は昔から稀少鉱物の産地として有名でウラン採掘の場所として白羽の矢が立ったのである。
このウラン鉱石を掘る作業が始まる直前、永沼少年のもとに戦地に行った父親から手紙が届く。
父の赴任地はあの硫黄島だった…。

昭和20年3月21日、永沼不二夫さん(当時15歳)は、ラジオから流れた大本営発表の硫黄島玉砕のニュースで父・文男さんの死を知った。
中学生たちのウラン掘りが始まったのはその一週間後のことである。
この年、4月13日、仁科研究室にB29の空襲があり、原爆開発に欠かせない実験装置が炎上してしまう。
翌日、仁科は東京の研究室での計画続行を断念。
研究員たちは大阪や山形に散って細々と計画を進めることになる。
それでも永沼不二夫さん等中学生たちはウランを掘り続けた。
グラマンの機銃掃射を受ける危険な日々が続く中、ついにその日がやってくる。広島原爆…。

仁科博士はこのときこう書き記した。
「我々、二号研究の関係者は腹を切る時がきたと思う」そして終戦。
ウラン鉱山で玉音放送を聴いた中学生たちに教師はこう語りかけた。
「明日からはスコップの替わりに教科書を持ってきなさい」

ニ号研究の研究総額は当時の金額で2000万円、現在の60億円という。
同時に海軍も京都大学に研究を依頼しており、海軍が上海から日本へ原料の酸化ウラン130kgを一億円(現在の300億円)で調達し、運び入れたことがアメリカ国立公文書簡の文書に残されているという。
海軍の秘密事項が敵国だったアメリカに筒抜けだったということである。
そればかりではない。

日本で初めてそのノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、戦時中に「新兵器」に関する大変重要な情報をアメリカに流したため、その論功行賞としてノーベル賞を与えられたのだという“事実”があった。

その「新兵器」というのは今でいう原爆のことだ。
日本の研究所ではアメリカよりも先に基礎理論が完成していた。
ただ、軍の機密に属することなので外部に漏れてはならないとされていたものを、「当時研究補助員であった湯川秀樹が米国に売り渡した」とある。

『ユダヤは日本に何をしたか』 渡部悌治・著/成甲書房という本の中に述べられているとのことである。
またこの本では日本の生協の父と言われる賀川豊彦もアメリカのスパイであったと述べられているということだ。
「ノーベル賞というものがユダヤ権力に功績があった者に対する賞である」というのがその本質であるとすれば「国賊・湯川秀樹」という見方も充分あり得る話なのだ。

湯川が売国的な行動をしなければ広島・長崎の惨劇も避けられたかもしれない。
中間子理論も彼一人だけの産物ではない。
道理で戦後は平和運動にいそしんだはずである。全てアリバイ闘争だったのである。
ノーベル賞以降さしたる業績も発見もなく終わった彼は、被爆者の亡霊に悩まされる晩年だったのかもしれない。


日本の原爆開発を中止させた昭和天皇より


昭和19年春、日本が原爆開発の終盤を迎えていた頃、昭和天皇は仁科博士を訪れ原爆について詳細にお聞きになられたそうです。
そして昭和天皇は原爆は世界を滅亡させるに十分な恐ろしい兵器であることを知られたそうです。

一方、日本の原爆攻撃を実行すべく東條首相と杉山元帥は、太平洋上の米国の戦略地点への原爆投下の腹案を持って昭和天皇に奏上されたそうです。
二人は陛下は、きっと喜ばれると思ったところ、原爆の恐ろしさを知っておられた陛下は、「いくつかの国が新型兵器を製造しているようだが、日本が最初に使用すれば、他国も必ず使用するに違いない、この兵器は人類を絶滅させる兵器となるので、新兵器を使用することには賛成することは出来ない。」と仰せられたそうです。
これが東條首相辞任の引き金になったとも言われています。
劣勢に対する一発逆転を考えた東條首相の戦争継続への勝算が切れた一瞬だったのかも知れません。

杉山元帥はそれでも諦めきれず開発を続けていましたが、それが又、陛下の知るところとなり「まだやっているのか。」と諌められたそうです。
杉山元帥も陛下の心を苦しめてしまったと自責の念を感じ、終戦直後に拳銃自決されました。
杉山夫人も乃木夫人と同じように自ら命を断ち後を追われたとのこと。

日本が、もし原爆を使用して一時的に劣勢を挽回しても原爆の数では圧倒的に連合国側が多いわけで、それこそ日本民族は絶滅していたかも知れません。
終戦のご聖断ばかりでなく原爆開発を中止なされた昭和天皇の、ご遺徳には日本国民も感謝申し上げなければならないと思います。


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もしも日本が先に原爆を開発していたなら、日本が米国へ原爆投下することになっていたかもしれない、それに対して、連合国側が圧倒的な数の原爆を日本にさらに落とすことになって、日本民族が絶滅していたかしれないと思うと、本当に恐ろしいことです。

天皇陛下の御判断は正しかった・・・
戦争は絶対にすべきではなく、まず始めに「戦争放棄のこころありき」であるべきだと思います。

被曝者や犠牲者の御霊への哀悼の気持ちは、同時に、日本がいまだ原発という核エネルギーを手放すことができないでいることへの深い反省とするべきだと思います。











はーとバレンタインデーはーと












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